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skyscraperによるブログ

寡黙なひとへ、

 人は他人のことをすべて知ったわけではないのに他人を語ったりする。最近私はこんなことでムカッとしている。簡単にいうと、「私のこと知らないくせに適当なこと言ってうざい」とか、「なんでだれも私のことを理解してくれないの」とかそういうことだ。

 でも、こう文字に起こしてみると知らないことについて語るというのはなんというか、普通のことじゃないだろうか?私たちは誰も、他人のことを完全に理解していない。だから誰もが「他人のことをすべて知ったわけではないのに他人を語る」のだ。そんな当然のことについても私はムカッとするから、どうやら原因は私の方にあるみたいだ。

 では、なぜムカッとするのだろうか。私は人のことを他人がさも知っているかのように話すのが嫌いだ。「お前はこういうやつだ」的なフレーズを聞くと敏感に反応してしまう。ある程度信頼関係のある人同士ならばそこまで嫌な感じではなく、信頼関係の築けていない人同士だと「決めつけている感じ」がする。世の中は大体信頼関係の築けていない人ばかりだから、これはちょっと繊細過ぎる考え方かもしれない。それに加えて、私は寡黙なひとだ。自己開示が少ない。だから相手からも私に関する情報が限られていて、相手は私の情報の一部のみに基づいて印象を形成することになる。その相手が私の一部を全部のように話すから、私は相手に「誤解された」と感じるのだ。

うーーん。なんとなく、「生来の繊細過ぎる考え方」と「少ない自己開示」によってこのムカッと来る状況が引き起こされているらしいことが分かった。こう書いてみると、受け入れがたいが、そんな気はしていたが、私は、、とっつきにくい人なのかもしれない。

 ところで、自分を誤解されてムカッとしないようになるにはどうしたらいいのだろう。いちいちこんなことでムカッとしていたら更に内に閉じた人になってしまうような気がする。そしてもっととっつきにくい人になるだろう。生来の繊細過ぎる考え方は、考えすぎてしまう性格というふうに捉えれば長所でもあるが、自己開示の少なさは長所とは言い難いような気もする。自分を、他人にある程度さらけだすべきだ。。

少ない自己開示を、普通くらいの自己開示に変えればよい。自己開示の少ない私は、何度も引っ込み思案だとか静かだとか寡黙だとか言われ続けていた。「もっと積極的になりなさい」。私はたぶんそのたびに「それ(寡黙さ)は私の一部でしかないじゃん」と思って、そう言ってくる人たちを嫌悪していた。でもそれは彼らから見える私自身が寡黙だとか静かだとかいう被膜に覆われていたためで、当然のことだった。では、自己開示の多い人はどうだろう。活発な部分、優しい部分、静かな部分、賢い部分などいろいろな側面が見える人だ。見えるから他人からの誤解も少ない。多くの部分を見せているから誤解があったとしても他の部分が誤解を修正してくれる。私は人にはいろんな側面があると思うし、見えている部分はほんの一部だと思う。私にも人には見えていないだけでいろんな側面がある。それを、「自己開示」によって見せていけばいいのだ、、

自己開示の方法は、どうすればいいだろう。言葉による自己開示に始め、行動による自己開示、見た目による自己開示などがある。自分のことをよくしゃべる人は、喋った分だけ正しく自分のことを理解される。金髪のヤンキーがおばあさんに席を譲ると、「ほんとは優しいやつなんだ」と思われる。すごい寡黙なひとでも、奇抜な服装をしていれば「こいつは寡黙だけど何かを内に秘めてるやつだ」と思われる。正直、私は喋ることも行動することも見た目を奇抜にすることにも積極的になれない。誤解されることが怖い。集団の中に溶け込んでしまいたい。努力したくない。

それでも人と出会う。人と出会うと、話すか話さないかの二択がポッと浮かぶ。横の人は知らない人だし話す必要がないと思うだろうか、ちょっと知ってる人だし話してみようと思うだろうか。ところで今の私は、自分の自己開示の少なさはあまりいい結果を生まないだろうということを知っている。誤解されることが怖い、その気持ちは自己開示が解決してくれるかもしれない。そう考えると、少しだけ私の選択は以前と違うものになるかもしれない。「隣の人はちょっと知ってる人かもしれない。なにか話してみるのも悪くないだろう」